アイデンティティ再発見の必要性と「他人からすごいねと言われる」価値の暴落
先日25回目の誕生日を迎えた。
会社でも「若手」扱いをされなくなる歳だし、第二新卒の枠にも入れない。
友達の中には結婚して妊娠している人もいる。
そういう年齢だ。
しかし最近「今までアイデンティティだと思っていたものがもはや自分のアイデンティティではないことに気が付いてしまった」。もうインドに自分探しに行ってもいい年齢でもないのに。
※ここで言及しているアイデンティティとは、自分を自分たらしめている概念という意味で使用している。
この問題に気が付いたのはこの習慣づけのライフハック本を読んでいた時に「人のアイデンティティは習慣によって形成される」といった文意の文章を読んだからだ。
https://www.amazon.co.jp/Atomic-Habits-Proven-Build-English-ebook/dp/B07D23CFGR
この本自体はアイデンティティの話ではない。習慣づけをどうするか、というライフハックの本である。しかし、私はこの「人のアイデンティティは習慣によって形成される」が一番印象に残っている。
何故か。
それは、私がこれまで人生における選択での指針としていたアイデンティティはまさしく中高生の私が積み上げてきた習慣によって形成されているからだ。
中高時代の私は「地位名声年収など世間一般ですごいと思われる属性を身に着ければ、社会ですごいといわれるんだからそうしよう」という指針があった。そのためアイデンティティは「他人からすごいねと言われる行動をとること」であった。
だから当然授業も真面目に聞くし、先生に質問するし、宿題やるし、部活もやるし…etc
心理テストで回答を迷わないし、「将来に何になりたいの?」と質問されたら大人が感心するような回答を言う。何故なら私の中では全て「すごいねと言われる言動をとる」方針が決まっていたからだ。
そして10年経った。
もう中高生の時になりたかった自分として描いていた自分像の年齢を超えてしまった。あの時叶えたかったことは大体叶えた。その結果、今まで私をいかしてきた「他人からすごいねと言われる言動をとること」は役目を終えた。
その時私には言動を決定づける方針がないことに気がついた。流石に10年追加で生きたら、「他人からすごいねと言われること」の価値は暴落している。他人からすごいねと言われるよりも自分が楽しいことをした方が良いに決まってる。
しかし、残念なことに「自分が楽しいことをする」というものは私のアイデンティティにはなり得ないようだ。ハッキリとは分からないが、自分が楽しいことだけをしていても、自分がなりたい自分にならなそうだからだ。
そこで、アイデンティティを再度構築する必要があるのではないかとうところに行きついた。そしてそれにはまず自分にとって何が快なのか不快なのか知らねばならない。また、以前の自分が「他人からすごいねと言われること」の方針をもとに無意識的に自分に植え付けている価値観をも自覚しないといけない。
自分が今まで無意識のうちにやっていたことに「apple製品を使用している人を見下す」というものがある。これは無意識寄りの意識側にあるものなので比較的自覚しやすかった。そこで、今回iPad, iPhone, Apple Watchなどapple製品に取り込まれてみることにした。恐らく便利なのだろう。
今回はここまでとする。