今日の激昂ー「それ平和の思想だよ」と言われた話

本日今年で何度目かの激昂を覚えた。

 

初めて一緒に仕事をする、私より年次が上の労働者から「今度面談しよう。新しい○○という仕事について、○○さんの期待することとか聞きたいし」などと言われたからだ。

 

私が仕事に期待すること?

 

「?」である

 

何を言っているのか理解できなかったので、その連絡を受けてすぐに同期に連絡した。○○さんという人間がふざけたこと言っているんだけど、○○さんって知っている?と。

 

同期は○○さんは知らないそうだが、「労働者が仕事に対して期待することを聞くこと」は最近できたものらしい。曰く、そもそもが労働者が大量に労働時間を当てることで仕事の成果としていたが、昨今の働き方改革で労働時間が大幅に削減され、成長機会も同時に減少。しかし、弊社が職場の魅力として「成長環境」をうたっている以上は何かしないといけないから、効いているんじゃないか、らしい。

 

なるほど…。

 

なるほど…。

 

さっぱり分からなかった。いや、日本語として言いたいことは理解できるのだが。私が知っている仕事とは、労働とは、顧客が求めてきたものにちゃんと応えること、それ以上でも以下でもない。と言ったら同期に「それは平和の思想だ」と言われてしまった。私は時代の最先端にいたつもりが、平和に取り残されているようだった。ショックだ。

 

さて。

 

私が仕事に何を求めるって?短時間で高額の報酬である。他に何かあるのだろうか。できることなら、労働時間だが、休みにして、さりとて有給は減らず、給料は出る、それがいい。

 

しかし、そんな回答はダメだろう。それぐらいはわかる。

 

結局また会社の外面を良くするための何かのために「私の本音を言う」体の機会で「相手が言って欲しいこと」を「私の本音」として言わねばならないのだろう。阿呆くさすぎる。

 

その面談とやらまでに少し時間がある。もう少し何か言ってやりたいものだ。

 

「もしかして、○○さんってリクル●トから転職されたんですか?」

 

このくらいは許されるだろうか。

 

なぜを問い、人間の本音と本音をぶつけて良いものを作ろうなどと言っているその実、上司が言って欲しいことを言っているだけの組織から来たのなら、納得である。

 

それならば、まぁ許してやろうか、と思った。

 

 

心がざわつくニュース、ざわつかないニュース

また心療内科トークである。

カウンセリングの先生ではなく、主治医と会話したら「前回ロシアのウクライナ侵攻の話をしたけれど、今はどうですか、落ち着いていますか」と言われた。

正直びっくりした。前回先生の方がノリノリで今後どうなるのかを聞いてきたから、心療内科的な何かがあるとは思わず、ただの世間話かと思っていた。先生、なめててごめんなさい。

 

さて。

それをいうのであれば、私はロシアのウクライナ侵攻に関するニュースではそこまで心がざわつかない。なぜなら、私はロシアやその周辺の文化を愛しているが、「自分事」かというとそうではないからだ。残念なことに私にスラブ民族の血は入っていない。

 

私がざわつくのは、女性、特に年下の女性が虐げられているニュースである。特に最近は成年が18歳になるにしたがって、これまであった取り下げ権がなくなるというものとか。何故なら私は、年下の人間で特に女性は庇護されるべき対象だと考えているからだ。

 

また、付け加えると私は最近フェミニズム関連の本が読めない。つらくなるからだ。まずそこにある地獄に私が無知だったこと。今もそこに地獄があること。私一人の何かで地獄が改善することはないこと。それらが積み重なって、私はフェミニズムの本を読み進めることができなくなってしまう。

 

先生にそれらを共有したところ、まぁ一旦距離をおいて、平穏に毎日を過ごすことが大事という結論になった。

 

この件は今後も検討したいが、とりあえず今日はここまで。

これまでなおざりにしてきたことをする

昨日のこれまで精神の支柱にしてきたアイデンティティがもはや私にとって意味をなさないことをカウンセリングの先生に報告した。

 

カウンセリングの先生と話して下記の結論を得た。

・(アイデンティティは消失したが、おおむね元気であると私が伝えたことを踏まえて)アイデンティティはないのに元気なことは精神が非常に穏やかで安定している。良かったね。

・確かにこれまでのアイデンティティはなくなったが、今までなおざりにしてきたことをちょっとやって、何かしら自分に良い影響があると良いね。

 

では、今までなおざりにしてきたこととは何か。

それは今までのアイデンティティでは否定してきたことである。

つまり「それをやっても他人からすごいねと言われなさそうなこと」である。

例えば映画環境、季節の行事への参加、apple製品の使用などである。

apple製品については前回記載したため、今回は映画鑑賞と季節の行事への参加について言及する。

 

映画鑑賞。

この世で最も無駄な行為の一つぐらいに思っていた。私は親を映画鑑賞に殺されでもしたのだろうか。いや違う。映画は一説によるとユダヤ人が生み出した三大Sの一つ(Screen)で人間から思考力を奪うものの一種らしい。会社の先輩が言っていた。大学でユダヤ人問題を履修した私からすると、いやナチスドイツがユダヤ人をドイツから追い出して、仕方なくアメリカにきたユダヤ人が既得権益のない新規産業に就業したらたまたま映画産業だったたけであって狙ってたわけじゃないなどと反論したくなったが、まぁよい。事実映画は時間とその見ている間の思考力を奪う。それは私にとって事実だ。

 

しかし、先日「ライフハック大全」という本を読んで週1回映画を見ることにしているのだが、大変良い効果を感じている。それは映画を見ることで、その時間は映画に没頭することができる。つまり、現実を完全に忘れることができるのだ。これは…今までやってこなくて正解だと思った。もし中高生時代に映画にハマっていたら勉強しなくなっていただろう。挙句の果てには、映画監督になる、などと言い出していた可能性が高い。

 

次に、季節の行事への参加がある。

完全に今までなおざりどころじゃない、バカにしていた。だってバカでもできるから。バカになりたくない私がやることじゃないと思っていた。何故毎年毎年同じことをするのか。生産性があるとはとても思えない。でも今となっては思う。その生産性とは何か。GDPに貢献すること?しかしたたが労働者の一人である私がいくら身を粉にして労働したところでGDPは動かない。であれば、何が生産性なのか。むしろ、ムーミン谷のスナフキンのように、ミイのように季節の変化を感じて、毎日ただ生きていることを感じた方がよっぽども人間に生きている価値があるのではないだろうか。

 

ということで、今年は季節の行事を大事にしている。

おせちも食べたし、初詣に行った。七草がゆを食べ、豆をまき、豆を食べ、太巻きを食べた。ひなまつりのあられも食べた。

特にそれをしたからって、億万長者になれるわけではないけれど、去年やおととしみたいに「気が付いたら一年が終わっている」ことは防げるのではないだろうか。

 

ということで、今年は映画鑑賞と季節の行事への参加を積極的に行っていく所である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイデンティティ再発見の必要性と「他人からすごいねと言われる」価値の暴落

先日25回目の誕生日を迎えた。

会社でも「若手」扱いをされなくなる歳だし、第二新卒の枠にも入れない。

友達の中には結婚して妊娠している人もいる。

そういう年齢だ。

 

しかし最近「今までアイデンティティだと思っていたものがもはや自分のアイデンティティではないことに気が付いてしまった」。もうインドに自分探しに行ってもいい年齢でもないのに。

 

※ここで言及しているアイデンティティとは、自分を自分たらしめている概念という意味で使用している。

 

この問題に気が付いたのはこの習慣づけのライフハック本を読んでいた時に「人のアイデンティティは習慣によって形成される」といった文意の文章を読んだからだ。

https://www.amazon.co.jp/Atomic-Habits-Proven-Build-English-ebook/dp/B07D23CFGR

 

この本自体はアイデンティティの話ではない。習慣づけをどうするか、というライフハックの本である。しかし、私はこの「人のアイデンティティは習慣によって形成される」が一番印象に残っている。

 

何故か。

 

それは、私がこれまで人生における選択での指針としていたアイデンティティはまさしく中高生の私が積み上げてきた習慣によって形成されているからだ。

 

中高時代の私は「地位名声年収など世間一般ですごいと思われる属性を身に着ければ、社会ですごいといわれるんだからそうしよう」という指針があった。そのためアイデンティティは「他人からすごいねと言われる行動をとること」であった。

 

だから当然授業も真面目に聞くし、先生に質問するし、宿題やるし、部活もやるし…etc

心理テストで回答を迷わないし、「将来に何になりたいの?」と質問されたら大人が感心するような回答を言う。何故なら私の中では全て「すごいねと言われる言動をとる」方針が決まっていたからだ。

 

そして10年経った。

 

もう中高生の時になりたかった自分として描いていた自分像の年齢を超えてしまった。あの時叶えたかったことは大体叶えた。その結果、今まで私をいかしてきた「他人からすごいねと言われる言動をとること」は役目を終えた。

 

その時私には言動を決定づける方針がないことに気がついた。流石に10年追加で生きたら、「他人からすごいねと言われること」の価値は暴落している。他人からすごいねと言われるよりも自分が楽しいことをした方が良いに決まってる。

 

しかし、残念なことに「自分が楽しいことをする」というものは私のアイデンティティにはなり得ないようだ。ハッキリとは分からないが、自分が楽しいことだけをしていても、自分がなりたい自分にならなそうだからだ。

 

そこで、アイデンティティを再度構築する必要があるのではないかとうところに行きついた。そしてそれにはまず自分にとって何が快なのか不快なのか知らねばならない。また、以前の自分が「他人からすごいねと言われること」の方針をもとに無意識的に自分に植え付けている価値観をも自覚しないといけない。

 

自分が今まで無意識のうちにやっていたことに「apple製品を使用している人を見下す」というものがある。これは無意識寄りの意識側にあるものなので比較的自覚しやすかった。そこで、今回iPad, iPhone, Apple Watchなどapple製品に取り込まれてみることにした。恐らく便利なのだろう。

 

今回はここまでとする。